大学部活回想記

叱られ続きの主将(笑)がべしゃる

being型の人とto do型の人

転職を考えている今日この頃、なかなかうまく進まない活動の一助にということで北野唯我氏の「転職の思考法」を読みました。

本書は仕事に関して漠然とした不安を持った青年が様々な出来事や葛藤、それに対する助言をもらいながら転職を考え実行していく物語形式となっています。

転職を考えるうえで立ちはだかる精神的な壁に対する考え方や臨み方が丁寧に記されておりとても身に染みるものでした。お勧めの一冊です。

その中で、特に感銘を受けたのが人にはbeing型とdo型が存在するという話です。

"to do(コト)に重きを置く人間・・・何をするのか、で物事を考える。明確な夢や目標を持っている。

being(状態)に重きを置く人間・・・どんなひとでありたいか、どんな状態でありたいかを重視する。"

これを前提とした、主人公の"青野"と彼のコンサルタント役"黒岩"の対話を抜粋します。

 

 

 

青野「僕はto doを明確に持っている人に憧れます。でも、自分は後者(being型)だと思います。」

黒岩「そうだろう。実際のところ、99%の人間が君と同じbeing型なんだ。そして99%の人間は「心からやりたいこと」という幻想を探し求めて、彷徨うことが多い。なぜなら世の中にあふれている成功哲学はたった1%しかいないto do型の人間が書いたものだからな。彼らは言う。心からやりたいことを持てと。だが、両者は成功するための方法論が違う。だから参考にしても彷徨うだけだ。」

 

これにはなるほどそうかもしれないと手を打ちました。

結局のところ自分はbeing型であるかもしれないという考えを持つだけで大分視点が広がったように感じます。

(beingであると完全に思い込むのはそれはそれでもったいない気もするのでしませんが。)

昨今では"好きなことを仕事にしよう"というフレーズをいたるところで見かけます。

それができるに越したことはありませんが現実ともなると、どう行動したらいいか分からなかったり躊躇ったり、そもそもそこまで好きなことがなかったりします。

しかし、そこに着目するのではなく、どういった"状態"に身を置くかが自分にとって重要であるかもしれないと認識できれば、気持ちにも余裕が出てくるとともに選択肢も広がるんじゃないかと。

もちろん、自分はbeing型だからdo型のように何かを成す挑戦は止めようなどと考えることはないと思います。

ただ、挑戦できない自分に負い目を感じる必要はないと思うんですよね。

私などは負い目を感じてしまうタイプでしたが、この本を機に転職活動も前に進むようになり最終段階まで来ることができました。(終わってはいないという・・)

 

この「好きなことを仕事にしよう」という言葉とその風潮によって、いわゆる to do型の人が挑戦を行いやすくなったというのは大いにあると思いますので一概に悪いわけではないでしょうが、惑わされやすいので気をつけねばと思う次第です。

私はしばらくはbeing型ということで人生を旅してみようと思います。

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さかなクンの"いじめ"に対する考え方

ネットという大海原でサーフィンをしているとこんな記事を見つけました。

(いじめられている君へ)さかなクン「広い海へ出てみよう」:朝日新聞デジタル

元は2006年に朝日新聞に掲載されたもののようですね。

私自身学生時代いじめをするもされるもした身の上ですが、いじめに関してこれほど腑に落ちる文章はあまり見たことがありませんでした。

サカナもヒトも狭い部屋の中に閉じ込められると、悲しい哉"いじめ"が起きてしまう。

大人の「いじめ」はなくならない――脳科学者・中野信子が解く、本能をコントロールする「いじめ回避術」とは? | ダ・ヴィンチニュース

中野信子氏によれば、ヒトには共同体が破壊されることを防ぐため、共同体のリスクになるものに敏感に反応し、スタンダードと少し違う人を対象にした制裁感情が発動してしまうとのこと。

そしてこれがいじめの正体であるようです。

毎日命がけで生きていた大昔でいえば共同体を守るため必要不可欠だったかもしれませんが、現代では過剰防衛になってしまっている様相は否めませんね。

そして"攻撃したい人の衝動を『どうにか抑制できる』とは思わない方がよい"と同氏が見解を示しているように、その部屋の中でそうにかするということはなかなか難しそうです。

そういったことも考えると、

"広い空の下、広い海へ出てみましょう。"

というさかなクンの言葉は"いじめ"から逃れる一つの方法として適切だなと思います。

私自身、今所属するコミュニティーがいくつかあります。

それは複数であったり、相手と自分二人だけというものもありますが、互いに縁のないコミュニティーが多いほうが解放感?があり心地がいいような気がします。

コミュニティーを増やしすぎるとそれはそれで問題はあるとは思いますけどね。

SNSの発達によりまだ見ぬ人との巡り合いが容易になり、まさに広い空、広い海に進出しやすくなったこの状況をうまく活用できたらいじめも減っていくかもしれないですね。

もちろん海だけに危険も多く存在すると思いますが、リスクを負うことは人間の宿命であると考えます。

それにしても、さかなクンの文章は優しいというか温かみがありますね。なんだかほっとします。

精神的な病みとそれを打開する発散方法

ポール・D・マクリーン(著)、法橋 登(翻訳)の三つの脳の進化 (新装版)を読みました。

やや専門的なこの本は私にはちと重く、匙ならぬ本を投げそうになりましたが先日なんとか本の端までたどり着いた次第です。

この本の中で、内臓などから感情などを生み出す内部世界と目や耳などから入る情報を受け取り構成される外部世界、それを橋渡しする役割をする部分があるということを認識しました。

といっても、私は専門でもなく正しく表現できているかも分かりませんが、ここで話がしたいのは外部から入ってくる情報が過多になる人がいわゆる「病んでいる」状態になりやすい人なのかなといことです。

目や耳から入ってくるものは、内臓を刺激します。

学校に行くのが嫌でお腹が痛くなる、会社のプレゼンが辛くて頭痛が発生するといったようなことです。

そういうことは往々にしてあるとは思いますが、それならそれで逆に内部から発せられる気持ち(電気信号)を外部で発散していかないと溜まりますよね。

いわゆる愚痴というのは、一つの自己表現だと思うんですよ。外部に発散する行為、言い換えればストレス発散ですね。

斯く言う私も、内部世界に情報が溜まりやすい、思い悩むタイプなのですが厄介なことに愚痴があまり好きではないんです。

そんなことをしても生産性がない!などという真っ当な理由からではなく、あまりすっきりしないんですよね。

私は単に「愚痴を言わないに越したことはないか」と思っていましたが、不満は溜まる一方であり具合は悪くなります。

ただ、追い詰められる?と私はよく不満を殴り書きした記憶があります。ノートであったり、チラシの裏だったりツイッターだったりと。

そして今は何を思い立ったかブログを書き始め、なんだかんだ続いている。

ひょっとして自分の外部への発散手段に向いているのは書くことでは?と最近思い始めたのです。

そんな時、こんな記事を拝見しました。

5つのタイプから判別!自分に合った正しい自己表現できてる? | ういみっく村

ここでは、自己表現として

話す、書く、創る、行動する、自分自身を表現するの5つが紹介されています。

自己表現はすなわち外部に放出することとほぼ同義と考えると、この5つの中に人それぞれのの得意な発散方法があるのではと考えました。

私は上に記したように「書く」ことがひとまず該当するようです。

しかし、ただノートに書くという行為はあまり発散にならないような気がします。

外部に発散しなければいけないので、人に見てもらう可能性を残しておかないといけないと思うのです。

実際、ノートやチラシに書いた時も何故かそれらを残しておきました。

いつか誰かに見てもらえることを期待していたように思います。

今まさに書いているブログはその点便利で誰かに見られる可能性が常にあります。

そして、ブログが溢れ返っている昨今では来てくれる方も多くなく気も楽です。

来てくれたら来てくれただけ嬉しいですけどね。

非難されるのが怖い、いわゆる炎上を起こしてしまう可能性があるなど、問題もありそれはそれで解決しなければならないと思いますが、とりあえず思いを書いてみるというのは特定の人の発散方法としてお手軽であり有効だと思うのです。

もちろん、億劫になれば止めてしまえばいいのです。発散したいときだけ書けばいいのです。

ネタがなくて書けない、というのは精神的な意味では健全な証拠かもしれません。

心が苦しいけど発散できないという人は、上記5つを試しつつ、書くという分野ではブログで不満を書きなぐってみてはどうかと思います。

チュウニズムのシステムボイス目指して ベース侍との死闘

最近音ゲーのチュウニズムでは、システムボイスと言われるものが導入されました。

どういうものかと言えば、スコアの結果を設定したキャラの声で読み上げてくれるというものです。

各キャラのシステムボイスはイベント中にある一定の条件を満たすと手に入ります。

以前、カードガチャの期間限定イベントに100円を投入しまくった私は、「カード&キャラ入手ならいざ知らず、システムボイスなどいらぬ!」と再び硬派?を気取っておりましたが

他のプレイヤーが使用しているのを聞くうちに欲しくなるという軟弱っぷりを発揮しました。

ということで、システムボイス獲得に乗り出します。

今回のターゲットはこちら。

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ギター・・・ではなくベース侍と名乗ったイロドリミドリの箱部なるです。

余談ですが今回このタイミングで登場したのは誕生日が関係してるという噂をどこかで見ました。(彼女は1月1日)


では、肝心の攻略ですが何をこなせばいいかというと、ゲーム終了時に対象のプレイヤーとバトルをします。

ダメージを蓄積させ、HPを0になれば勝利、報酬があります。

しかしバトルと言っても、こちらがダメージを一方的に与えるだけです。(ひどい)

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基礎ダメージはゲームのプレイスコアで決まりますが、プレイの難易度は問われないので上級者が有利、というわけではないです。


そして今回の売りであり目標であるシステムボイスは3回分の戦闘に勝利しなければなりません。

3回のHPの合計は750+2950+6850=10550。一方望めるダメージは1クレジットで300程。

10550/300=35.166666・・・

すなわち、まともにやると36枚の100円で、36×3=108曲をプレイすることになります。

750,2950の地点で戦闘は区切られるので、もう少し増えるかもしれません。

これを1/10-2/6、約1ヶ月以内にこなす必要があります。


ここで困ったことがあります。

このチュウニズム、私の周辺のゲームセンターでは人気が高く、待ちプレイヤーがいることもよくあります。

私は待つのが好きじゃないので、混んでいると別の音ゲーに行ったり帰ったりします。

毎日行くわけでもないので、クリアできない可能性も十分あるのです。


そんな私のような怠け者にも救済があります。

ゲーム中のミッションクリアで1.5倍のダメージ、1曲+プレイチケット使用で4曲分のダメージ、2倍速、3倍速チケット(ゲーム内のスゴロクにおける加速チケット)と呼ばれるものを使用するとそれぞれ2,3倍のダメージが与えられます。

2,3倍速チケット使えばあっという間に成敗できそうですよね。

しかし、戦闘力増強には代償を支払わなければならんのです。

界王拳は体力を持って行かれますが、我々の場合はマネーを持って行かれます。

基本的にはそれぞれ+100円、200円の追加のクレジットを必要とします。

(ちなみに1.5倍をフルで活用できれば単純計算で24回分です。)


最初は無課金でやってやらぁ!と思っていたんですよ。

1回戦、2回戦目は1.5倍ボーナスをなるべく拾うようにしつつ切り刻んでいけば、そこまで苦労はしません。

問題は本イベントの目玉でもある3戦目(HP6850)。

これまた地道に戦っていたのですが、ちびちびと蓄積されるダメージを見るのがめんどくさくなり、また少々ペース的にも怪しくなってきたので

堪らず「そぉい!!」と100円玉6枚(3倍×2)をベース侍さんにを叩き込みました。

1.5倍ミッションも優しかったので(課金者には優しくなる仕様??)充足したカキンストラッシュをお見舞いし、合計2600超のダメージを与え瀕死に追い込みます。

その後は2回踏ん張ってプレイしてゲット。

 

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またSEGAさんの思惑?に嵌ってしまったなぁと思いつつ満足してしまう私です。

尚、ボイスは聴けていません。ゲーム終了時にセットするのですが、癖でパネル連打で終了させてしまうんですねこれが。

聴こうと思ってゲットしてから頑張って2回ほどプレイしましたが、セッティングのことを思い出してセットしたところで力尽きました。

次回に期待です。

ちなみにこの侍、バトル時に攻撃を受けるとランダムで「くっ・・効かん!」と叫ぶらしいのですが、語尾が上がり調子のためか「チカン!?」に聞こえます。

やめてくださいしんでしまいます^o^(社会的に)

ギリシア語の善と悪

以前、勤め先でこんなことがありました。

とある展示会に出品することになる。

経験を積ませるという意味合いで、私が撤収場面でのリーダーに任命される。

少々複雑で急がなければならない為、全体のリーダーから私主導の元、皆でリハーサルを行うよう指示される。

年配の上司Aさんも撤収チームに入る。(本作業を過去に経験済みのせいか、この時点でやや機嫌悪い)

作業のなかで「物品Aは縛ってから箱詰めしてください」と指示する。

Aさん、物品をどう縛ればよいか確認のため縛らず入れてみる。

私は縛らずに入れるのかと思い咄嗟に「あ」と言ってしまうのの確認作業だと気づいて言うのを止める。

その刹那"Aさんは縛るのを忘れて入れている"と私が考えたことがAさんに見透かされAさん激怒。

作業後少し落ち着いた様子でAさんに「そのように思うこと自体が悪だから」と言われる。


当時は"イラつく気持ちはわかるけどそんな怒ることないだろう?"と、こちらも若干キレ気味でしたが後あと冷静になってみると

"そのように思うこと自体が悪だから"って表現なかなか聞かないなと思ったんです。

大げさに言えば思想統制では?とも思えるインパクトのある発言です。

ここで注目したいのは"悪"という言葉なんですが、私はこの"悪"という言葉を道徳的な表現として認識していました。

すなわち、正しくなく、人道にはずれていることといった具合です。

なぜ"不道徳で人道にはずれている"(Aさんもそこまでのつもりはないでしょうが)とまで言われなければならんのかと思いつつ

折角なので悪という言葉について調べてみると、"悪"という概念の定義は宗教、哲学、心理学などによって様々にあることをしりました。

しかしながらwikipediaによれば"概ね人道に外れた行いや、それに関連する有害なものを指す概念"という面では共通しているようです。

悪 - Wikipedia

更にネットを眺めていると

"哲人:ギリシャ語の「善」(agathon)という言葉には、道徳的な意味合いはありません。ただ「ためになる」という意味です。一方、悪(kakon)という言葉には、「ためにならない」という意味があります。"

という一文を見つけます。

cubexcube — 哲人:ギリシャ語の「善」(agathon)という言葉には、道徳的な意味合いはありません。ただ「ためにな...

これは岸見一郎氏、古賀史健氏共著「嫌われる勇気」の一節であり、過去に自分も読んだことがありました。

そういやあったな、と思い出すと共にとてもすっきりしたんですよね。

"このように思うこと自体が悪だから"とは、Aさんにとってためにならなかった。という意味合いでしかない。

そうであれば「そうですか、すみませんね」で終わります。

この一節には続きがあります。

"この世界には不正や犯罪など悪行がはびこっています。しかし、純粋な意味での「悪=ためにならないこと」を欲する者など、ひとりもいないのです。"

ギリシア語の善悪からすれば、例えば食糧がほしいなどから窃盗に及んだとしても、本人にとっては総合的に見て「善=ためになること」でしかないということです。

つまり、誰かが行いをしたとして、理由はどうであれ当人にとってそれは"善"なのです。

Bさんの行動は、Cにとっては善、Dさんにとっては悪、という立場的な問題でしかない。

当然、Dさんからすれば"悪"なので、なんらかの対処をしなければなりませんが、人々の行動について一度ギリシア語における善悪で物事を捉えることで、今後の指針を冷静に判断できるのではないかと個人的に思っています。

今回たまたま"悪"を調べたことで、自分を縛りつけていた"善悪"というものをより単純に見ることができるようになり今後人生が少しばかり過ごしやすくなりそうです。

お便所DDR部

勤め先の会社でのことです。

便所で用を足した後、手を洗って出ようとしたその時です。

トイレの床に敷き詰められているタイルを見て「いい感じに区分けされているな」と、ふと思ったのです。


当時私は音楽ゲーム"ダンスダンスレボリューション"、通称DDRにはまっていました。

矢印をリズムに合わせて踏み踏みするゲームです。

踏み心地の良さそうなものがあると、足を動かしたくなります。

私はいてもたっても居られず、あろうことか会社のトイレでエアDDRを始めてしまいました。

仮想曲はZETA ~素数の世界と超越者~だったと思います。

あのなんとも不気味で神々しい雰囲気が好きでして。

 

こういう時に限ってっていうのありますよね。

間もなくして上司がトイレに入ってきます。


なんとか停止を決めましたが、おそらくがっつり見られました。

一瞬目も合いました。何やってんの?という驚きの表情です。

しかし、上司はその後何事もなかったように用を足します。

イヤァーーーーと心の中で叫びながら私も逃げるようにトイレを出ました。

お便所DDR部引退します。ありがとうございました。

ネレイダム/聖夜の女神の誘惑 ~有償のサンタクロース~

(年末に投稿しようと思って忘れていた話。)

私はゲームセンターにある「音ゲー」をやっておりまして、その中でもCHUNITHMが好きです。

この音ゲーに最近ガチャが登場してしまいました。

携帯アプリゲームでは今や見慣れた、あの液晶画面上で行うガチャです。


他の音楽ゲームでもこういったシステムを見かけたことはありますが、自分がメインでやっているゲームで目の当たりにするのは初めてでした。

こういうシステムが導入される時には必ず撒き餌がつきもの。

様々なゲームで言えるかもしれませんが、やはりというべきか、このゲームは美(少)女で我々を釣ってきます。

そして年末といえばアレです。

クリスマス・・・サンタコス・・・

今回選ばれしキャラクターは。

ネレイダム/聖夜の女神ver

既存のキャラがサンタの格好をしているものです。

初めてお目にかかったのはネットでした。

画像を見た瞬間。

「ん?この雰囲気・・・何か特別なことをしなければならない奴だ」

と察しました。

どうやらガチャで当てると、実物のカードがもらえる他、音ゲー内でキャラとして使用することができるようです。

私はこの手の特別キャラにあまり興味がなく、ゲームでのプレイにほぼ支障なしなので特に気にかけていませんでした。

一か月前にも同じようなガチャイベントがあったようですが、それについては知りもしませんでした。


しかしそれからというものゲームセンターに赴くといろんなところにサンタコスのネレイダムが張り付けてあるのが目に入るんですよね。

心なしか絵から気合も感じる。おいでおいでと誘われているような気もする。かわいい。

「俺こういう特装キャラ興味ないし!」と思いつつプレイしていましたが、人は何度も見ることでその対象に愛着がわくもの。

気づけばガチャ専用の機械の前に立っていました。

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そもそも私は、この手のガチャにお金をかけたことが一度もありません。

泥沼にはまってしまうと思っているからです。

「この俺がガチャをするなど・・・!」「おのれセガめ・・・!」

などと心の中で抗いますが抵抗虚しくお金が機械に吸い込まれていきました。

さて、このガチャは100円で一回引けます。

サイコロを振って当たり目を引けばゴージャスなカードを貰えるような演出です。

おそらくそのゴージャスなカードがネレイダムに違いない。

100円・・200円・・300円・・・

なんとなくわかっていました。当たるはずなどないと!

鬼畜な子供ペンギンに「これあげる」とお情けでカードを頂けますが、これこそ恰好もいつもと同じの既存キャラです。

かわいいキャラ、かっこいいキャラもいますが、満足いきません。

このままではまずいと、一度撤退します。

帰って少し調べてみると、どうやら一定回数のガチャを引くと欲しいカードを自由に選択できる権利を得られるらしい。

その額合計1000円。何とも手が伸びてしまいそうな値段。SEGAさんやりますねぇ・・・

「プレイ10回分だぞ!しっかりしてくれ!」「今後もイベントが続けば際限なくお金が散るぞ!」

と心の声が聞こえてくる中、今回は取りに行く決断をしました。

再び機械の前に立ちます。しかし前回と違い迷いはありません。

躊躇なく金をつぎ込みます。前回300円出したので700円です。

オラオラオラと(心の中で)叫びながらガチャを回します。

当然のことながら当たりませんが、プリントアウトしたカードの山を抱え遂に10回目を迎えます。

念願のキャラ選択画面にたどり着くとキャラクターがずらり。

ネレイダム以外は既存のキャラであるものの、なんとなく欲しいキャラも存在してなかなか憎いです。

ここは譲れませんので0.1秒迷ったあとネレイダムを選択、見事ミッションコンプリートしました。

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悔しいですが満足です。かわいい。

他の皆さんはどういう感想をお持ちかと、チュウニズム攻略wikiのネレイダムページを覗くと

 

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2ページ目のHAR-ヒロイン09【ネレイダム/聖夜の女神】 -CHUNITHM【チュウニズム】攻略wiki - Gamerch

 分かります。尊いですよね。

しかしサンタクロースといえばプレゼントを無償で与えてくれる存在と思っていましたが、世の中ギブ&テイク。

財で報いなければいけないものなのでしょう。

しかもプレゼントは自分のカード。サンタクロースはビジネス。

いえ、構いません。良いものはいいのです。


余談ですが、CHUNITHMのオリジナルキャラクターにはストーリーが与えられており、ネレイダムにも物語があるのですがこの少女なかなかに健気です。

応援したくなります。

HAR-ヒロイン09【ネレイダム】 -CHUNITHM【チュウニズム】攻略wiki - Gamerch

これからも気に入ったのが出てきたら諦めて金を突っ込むことにします。