ギリシア語の善と悪
以前、勤め先でこんなことがありました。
とある展示会に出品することになる。
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経験を積ませるという意味合いで、私が撤収場面でのリーダーに任命される。
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少々複雑で急がなければならない為、全体のリーダーから私主導の元、皆でリハーサルを行うよう指示される。
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年配の上司Aさんも撤収チームに入る。(本作業を過去に経験済みのせいか、この時点でやや機嫌悪い)
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作業のなかで「物品Aは縛ってから箱詰めしてください」と指示する。
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Aさん、物品をどう縛ればよいか確認のため縛らず入れてみる。
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私は縛らずに入れるのかと思い咄嗟に「あ」と言ってしまうのの確認作業だと気づいて言うのを止める。
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その刹那"Aさんは縛るのを忘れて入れている"と私が考えたことがAさんに見透かされAさん激怒。
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作業後少し落ち着いた様子でAさんに「そのように思うこと自体が悪だから」と言われる。
当時は"イラつく気持ちはわかるけどそんな怒ることないだろう?"と、こちらも若干キレ気味でしたが後あと冷静になってみると
"そのように思うこと自体が悪だから"って表現なかなか聞かないなと思ったんです。
大げさに言えば思想統制では?とも思えるインパクトのある発言です。
ここで注目したいのは"悪"という言葉なんですが、私はこの"悪"という言葉を道徳的な表現として認識していました。
すなわち、正しくなく、人道にはずれていることといった具合です。
なぜ"不道徳で人道にはずれている"(Aさんもそこまでのつもりはないでしょうが)とまで言われなければならんのかと思いつつ
折角なので悪という言葉について調べてみると、"悪"という概念の定義は宗教、哲学、心理学などによって様々にあることをしりました。
しかしながらwikipediaによれば"概ね人道に外れた行いや、それに関連する有害なものを指す概念"という面では共通しているようです。
更にネットを眺めていると
"哲人:ギリシャ語の「善」(agathon)という言葉には、道徳的な意味合いはありません。ただ「ためになる」という意味です。一方、悪(kakon)という言葉には、「ためにならない」という意味があります。"
という一文を見つけます。
cubexcube — 哲人:ギリシャ語の「善」(agathon)という言葉には、道徳的な意味合いはありません。ただ「ためにな...
これは岸見一郎氏、古賀史健氏共著「嫌われる勇気」の一節であり、過去に自分も読んだことがありました。
そういやあったな、と思い出すと共にとてもすっきりしたんですよね。
"このように思うこと自体が悪だから"とは、Aさんにとってためにならなかった。という意味合いでしかない。
そうであれば「そうですか、すみませんね」で終わります。
この一節には続きがあります。
"この世界には不正や犯罪など悪行がはびこっています。しかし、純粋な意味での「悪=ためにならないこと」を欲する者など、ひとりもいないのです。"
ギリシア語の善悪からすれば、例えば食糧がほしいなどから窃盗に及んだとしても、本人にとっては総合的に見て「善=ためになること」でしかないということです。
つまり、誰かが行いをしたとして、理由はどうであれ当人にとってそれは"善"なのです。
Bさんの行動は、Cにとっては善、Dさんにとっては悪、という立場的な問題でしかない。
当然、Dさんからすれば"悪"なので、なんらかの対処をしなければなりませんが、人々の行動について一度ギリシア語における善悪で物事を捉えることで、今後の指針を冷静に判断できるのではないかと個人的に思っています。
今回たまたま"悪"を調べたことで、自分を縛りつけていた"善悪"というものをより単純に見ることができるようになり今後人生が少しばかり過ごしやすくなりそうです。